2013年度鑑賞作品
華麗なるギャツビー
 
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その美しさも、莫大な財産も、すべてが完璧な男
―ジェイ・ギャツビー。
だが、彼には〈秘密〉があった―。

今年の第66回カンヌ国際映画祭のオープニング作品であり、メイン会場で上映された、ディカプリオ主演の「華麗なるギャツビー」。そして、アメリカ経済が空前の大繁栄をとげた「狂乱の20年代」を舞台にした映画では、ゴージャスな世界観を演出するため「プラダ」や「ミュウミュウ」「ブルックス・ブラザーズ」が衣裳を担当し、そして、「ティファニー」がジュエリーをはじめ、インテリアや磁器、フラットウェアなどを提供し、話題になった。

華麗なるギャツビー

「ティファニー」からは「華麗なるギャツビー」のテーマである富や名誉を表現した「グレート・ギャツビー」コレクションが発表されたり、ミウッチャ・プラダが手掛ける衣装展が開催されたりと、「華麗なるギャツビー」公開を大いに盛り上げた。なお、プラダの衣装展は6月30日までプラダ青山店の5・6階で開催されているので、ギャツビーの世界観を体現できる良い機会かもしれない。

衣装展会場では、キャリー・マリガンやアイラ・フィッシャーらが身に付けたドレスやハット、シューズ、コスチュームジュエリーに加え、デザイン画やメイキング写真、舞台裏の映像や動画の予告編などが紹介されている。プラダのデザイナー、ミウッチャ・プラダは衣装デザイナーのキャサリン・マーティンと協力し、過去20年間で発表してきた「プラダ」と「ミュウミュウ」のコレクションをインスピレーション源に約40着のドレスをデザインした。

キャリー・マリガンやアイラ・フィッシャーらが身に付けたドレスやハット、シューズ、コスチュームジュエリー
デザイン画やメイキング写真、舞台裏の映像や動画の予告編などが紹介 キャリー・マリガンやアイラ・フィッシャーらが身に付けたドレス

マリガン扮するデイジーがギャツビーのパーティーに出掛けるシーンで着用したクリスタルビーズのドレスは、プラダの10SSコレクションが元になっており、人魚のようなスパンコール使いのドレスは11-12AWコレクションを彷彿とさせる。その他のドレスも、ラメやスパンコール、シルクタフタ、ファー、ベルベットなどを使用し、「狂騒の時代」と呼ばれた当時の雰囲気を再現している。

また、「華麗なるギャツビー」のグローバルパートナーとして、ジェイ・ギャツビーをはじめ、男性キャストの衣装を提供している「Brooks Brothers(ブルックス・ブラザーズ)」は、明日の23日まで丸の内店でスペシャル衣装展が開催されている。そして、原作に基づいて再現した衣装を現代の素材に置き換えた「GATSBY COLLECTION」がブルックス・ブラザーズの各店舗で販売されている。そんな「GATSBY COLLECTION」のスーツで着飾り、ギャツビーを気取ってみるのも実に面白い。

「GATSBY COLLECTION」のスーツで着飾り、ギャツビーを気取ってみるのも実に面白い
「GATSBY COLLECTION」のスーツで着飾り、ギャツビーを気取ってみるのも実に面白い

「華麗なるギャツビー」は、ロバート・レッドフォードというイメージが強いが、第1次大戦後「ロスト・ジェネレーション」と呼ばれ、虚脱感の中に生きる戦後世代の代弁者とされた米国の作家であるF・スコット・フィッツジェラルドが、アメリカンドリームを体現した謎めいた男ジェイ・ギャツビーの半生を描いた「グレート・ギャツビー」は、今回が5度目の映画化。

「華麗なるギャツビー」は、ロバート・レッドフォードというイメージが強い

この作品の舞台となっているのは、「狂騒の20年代(Roaring Twenties)」。これは、アメリカの1920年代を現す言葉であり、社会、芸術および文化の力強さを強調するものである。第一次世界大戦の後で、ウォレン・ハーディングは、「常態に帰れ(Return to Normalcy)」という公約で出馬。これはその時代の3つのトレンドを反映していた。すなわち、第一次世界大戦に対する反応として新たにされた孤立主義、移民排斥主義の復活、および、改革の時代における政府による積極行動主義からの方向転換だった。

狂騒の20年代

そして、ジャズ・ミュージックが花開き、フラッパーが現代の女性を再定義し、アール・デコが頂点を迎え、最後は1929年のウォール街の暴落がこの時代の終わりを告げ、その後、世界恐慌の時代に入った。

狂騒の20年代の精神は、現代性に関わる不連続性、すなわち、伝統の破壊という一般的な感覚が特徴。あらゆるものが現代技術を通じて実現可能に思われた時代。特に自動車、映画、ラジオのような新技術が、大衆の大半に「現代性」を植えつけた。形式的で装飾的で余分なものは実用性のために落とされ、建築や日常生活の面に及んだ。同時に、まだ大衆の心に残っていた第一次世界大戦の恐怖への反動として、娯楽、面白み、軽快さがジャズやダンスに取り込まれ、そのためこの時代はジャズ・エイジと呼ばれることもある。

この時代はジャズ・エイジと呼ばれることもある

「グレート・ギャツビー」は、その当時のアメリカを語る上で欠かす事の出来ないセレブリティカルチャーのパイオニアの1つと言える。ミネソタ州の地方都市に生まれたフィッツジェラルドは、23歳の時に「楽園のこちら側」の大ヒットで作家として成功すると、大都会ニューヨークに移り、パーティーとゴシップ三昧の日々を送る事になる。「グレート・ギャツビー」の物語は、空前の好景気を謳歌するニューヨークの、虚飾にまみれたバブルな日々から生み出されたと言える。

「グレート・ギャツビー」の物語は、空前の好景気を謳歌するニューヨークの、虚飾にまみれたバブルな日々から生み出されたと言える
「グレート・ギャツビー」の物語は、空前の好景気を謳歌するニューヨークの、虚飾にまみれたバブルな日々から生み出されたと言える

謎の大富豪、ギャツビーの正体は名家の出身でも、オックスフォード卒の秀才でもなく、アメリカの田舎の極貧の家庭で育ったどこにでもいる平凡な男。彼は5年前に出会い、一時は愛し合ったデイジーの事が忘れられず、今はもう人妻となった彼女を取り戻すためにニューヨークへとやってきた。偽の名士ギャツビーとして、毎日のように派手なパーティーを主催するのも、いつかデイジーが噂を聞いてやって来る事を期待してのこと。

フィッツジェラルド自身の、セレブ生活の虚しさの中で生まれた「グレート・ギャツビー」は、人間の果てしない欲望を核心に、究極の愛を求めている。太く短く、刹那的に生き、若くして死んでしまうギャツビー同様に、フィッツジェラルドも大恐慌時代の作家としての低迷、愛妻ゼルダの精神病での入院という悲劇を経て、44歳の若さでこの世を去る。ある意味、ギャツビーは作者自身を投影したキャラクターなのかも知れない。

毎日のように派手なパーティーを主催するのも、いつかデイジーが噂を聞いてやって来る事を期待してのこと
今はもう人妻となった彼女を取り戻すためにニューヨークへとやってきた
今はもう人妻となった彼女を取り戻すためにニューヨークへとやってきた
同時にギャツビーが体現するのは、ヨーロッパの衰退により、世界一の超大国へと浮上する若きアメリカの夢そのもの

同時にギャツビーが体現するのは、ヨーロッパの衰退により、世界一の超大国へと浮上する若きアメリカの夢そのもの。第一次、第二次世界大戦間のつかの間の平和な時代は、アメリカの世紀の幕開けでもある。過去数世紀に渡るヨーロッパの「頸木」に挑むアメリカの姿は、ニューヨークの社交界へ颯爽と現れたギャツビーの姿に重なり映る。しかし、あり余るエネルギーで瞬く間に世界の中心に立ったものの、新参者の成金故に伝統的なる社会にコンプレックスを抱えているの姿も同じである。ギャツビーがオックスフォードでの学歴やヨーロッパ戦線での戦歴を詐称するのも、金以外の拠り所を持たないからであり、今もアメリカ人の意識に潜む、ヨーロッパ文化や貴族社会の持つ悠久の歴史に対する嫉妬にも似た強い憧れの源泉が垣間見える。

ピンクのスーツ姿のギャツビーを、真の金持ちは地味でシックでなければと見下すデイジーの夫トムとのシークエンスは、当時のアメリカとヨーロッパの関係を比喩しているようだ。また、富豪に生まれつき、女グセの悪さが大きな悲劇をもたらしても少しも悪びれないトムの姿も、ある意味時代を象徴している。

ピンクのスーツ姿のギャツビーを、真の金持ちは地味でシックでなければと見下すデイジーの夫トム

もっとも、古き階級社会の支配者も、ギャツビーが象徴する新しい力も、その力の源が「金」であることは変わらない。異なるのは、その目的。ギャツビーが湯水の様に金を使い彼が求めたのはたった1つの愛である。しかし、ギャツビーという虚像の崩壊によって、それすらも幻の様に消えてしまう。究極の純情が滅びる時、アメリカの青春の夢もまた潰え、残るのは心の無い資本主義の原理原則によってのみ支配される人間たちだけだ。

「グレート・ギャツビー」の原作が出版されたのは1925年の事で、その4年後の1929年には大恐慌が起こるのだから、やはり時代が産んだ作品であったことは間違いない。また、語り部のニックが証券会社に務めているのも暗示的。彼は誰よりも資本主義の本質に近いところにいるからこそ、物質主義の象徴たる金を利用して、愛という精神を求めたギャツビーに惹かれ、そして、彼の死に絶望する。

語り部のニックが証券会社に務めているのも暗示的。彼は誰よりも資本主義の本質に近いところにいるからこそ、物質主義の象徴たる金を利用して、愛という精神を求めたギャツビーに惹かれ、そして、彼の死に絶望する
語り部のニックが証券会社に務めているのも暗示的。彼は誰よりも資本主義の本質に近いところにいるからこそ、物質主義の象徴たる金を利用して、愛という精神を求めたギャツビーに惹かれ、そして、彼の死に絶望する

この作品は本質的に心の距離を描いた作品で、ギャツビーとデイジーの間に横たわる5年という歳月のギャップを、ギャツビー邸の対岸のデイジーの屋敷の桟橋に光る緑のライトに象徴し、手が届きそうで届かないデイジーの愛を隠喩する。夜の闇の中で光に手を伸ばす彼の後ろ姿は、そのまま過去の愛という幻想を現実に取り戻そうとする心情を雄弁に物語る。

今作の贅沢で華やかな意匠は、「ムーラン・ルージュ」で知られるバズ・ラーマン監督の真骨頂。フェリーニ風の過剰な祝祭性ともいうべきパーティシーンが観客を異次元空間に誘う。当時大流行したチャールストンをリズミカルに踊るフラッパーヘアーの踊り子に、ヒザ丈のシャネルのドレスを着用し、高いピンヒールを履いて踊る美しい女性たち。舞う紙吹雪、ジョージ・ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」、シャンパンの泡、そして、ド派手に打ち上げられる花火。

贅沢で華やかな意匠は、「ムーラン・ルージュ」で知られるバズ・ラーマン監督の真骨頂
贅沢で華やかな意匠は、「ムーラン・ルージュ」で知られるバズ・ラーマン監督の真骨頂 贅沢で華やかな意匠は、「ムーラン・ルージュ」で知られるバズ・ラーマン監督の真骨頂

狂乱の20年代を象徴するような煌びやかなパーティシーンの狂騒感と祭りの後の静けさの対比が、ギャツビーとデイジーの悲恋を暗示する。贅をつくした虚栄の輝きと、そこに寄り添う幻滅と虚しさが観客の心にそっと忍び込む。

狂乱の20年代を象徴するような煌びやかなパーティシーンの狂騒感と祭りの後の静けさの対比が、ギャツビーとデイジーの悲恋を暗示する

ド派手な世界観を演出するのが得意のバズ・ラーマン監督とレオナルド・ディカプリオの「ロミオ+ジュリエット」以来17年ぶりにタッグを組んで挑んだ作品は、豪華絢爛な映像で最高にゴージャスで切ない極上のエンターテインメントに仕上がっており、ディカプリオにとっては、「タイタニック」以来のラブストーリー。

そして、狂言回しとなるニック役には、実生活でもディカプリオの親友でもあるトビー・マグワイアが落ち着いた演技でこの作品を引き締める。

狂言回しとなるニック役には、実生活でもディカプリオの親友でもあるトビー・マグワイアが落ち着いた演技でこの作品を引き締める

毎夜のように繰り広げられる豪華絢爛なパーティーシーンを観るだけでも、ストレスに悩む現実から逃避できるかも知れない。贅沢な衣裳、ゴージャスな美術、心弾む音楽…独特の色彩感覚とカメラワークにより、一歩間違えば悪趣味とも揶揄されそうなポップアート風の世界観に見事に昇華されている。ただ、超豪華な喧騒の宴の映像を堪能した後の悲しい顛末からは、何とも言いようがないほどの切ない空虚さが押し寄せてくる。

超豪華な喧騒の宴の映像を堪能した後の悲しい顛末からは、何とも言いようがないほどの切ない空虚さが押し寄せてくる

ギャツビーにとっては1度きりの一途な愛も、デイジーにとっては愛の1つに過ぎなかった。緑の灯りに象徴される愛という幻想に溺れてしまった男の運命が哀しくも滑稽に映る。

時代の徒花であるジェイ・ギャツビーの生き様は、観客の心の奥底に静かに染み入ってくる。

時代の徒花であるジェイ・ギャツビーの生き様は、観客の心の奥底に静かに染み入ってくる。

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